さばの味噌煮とわたし
私は小学生のころ、給食で出るさばの味噌煮が大好きだった。
味というよりもホイルに包まれたそのさばの味噌煮は骨まで食べられるほど柔らかかったのだ。
大きくなった今、さばの味噌煮を作ってみるとさばを三枚におろす→沸騰したお湯にさばをくぐらせて臭みを取る→薄いしょうゆだしとしょうがの千切りで煮る→味噌をこして味を調えるという手順になる。
しかし、硬いさばの骨はこんなことではびくともせず、食べずらいほどに硬く細かくのこってしまう。
小学生が食べやすいように特殊加工していたのだろうか。
さばのカンズメなども驚くほど骨が柔らかくこりこりとするものがある。あれは加工しなければ作れないのだろうか。
大人になった今ならば、あのさばの味噌煮は家では作れないのだと理解できるが、子供の私にはなぜ作れないのかが理解できない。
だいすきなだいすきなさばの味噌煮を作ってとお願いしては毎回がっかりしていたのを覚えている。
子供のとき、親はできないことは何もないと思っていたからよけいに落胆したのかもしれない。
大きくなった今、あのときの両親の年齢を超えてしまった。
あんなに大きく見えた両親は年とともに自分と近づいていき、いまでは彼らも不完全な事が容易に分かるし、それを認める事ができる。
しかし、わが子ができたとき同じように大きく見てもらえるかどうかはまったく自信がない。
いろいろな事を忘れながら大きくなっていくけれど、小さいときに感じた雰囲気というか感じは記憶に残りやすいのだと思う。
最近の子供は・・・とよく聞くけれど
いつの時代も子供は同じように生まれて、同じように見た事、聞いた事、触れた事、を吸収しながら成長していく。
最近の子供はではなく、最近の親が育てた子供はという風に改めたほうがいい。
子供にはまったく罪はない。